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高山樗牛 「日本主義」

 熟々本邦文化の性質を考へ、宗教及道徳の歴史的関係を審にし、汎く人文開展の原理に徴し、国家の進捗と世界の発達とにおける殊遍相関の理法を認め、更に本邦建国の精神と、国民的性情の特質とに照鑑し、我国家の将来の為に、吾等は茲に日本主義を唱ふ。
 日本主義とは何ぞや。国民的特性に本ける自主独立の精神に據りて建国当初の抱負を発揮せむことを目的とする所の道徳的原理、即是なり。
 そもそも国家の真正なる発達は国民の自覚心に基かざるべからず。国民の自覚心は国民的特性の客観的認識を得て初めて生起することを得べし、而かも是の如き国民的特性は、精覈なる歴史的、はた比較的考察に依るに非ざれば、認識することを得べからず。吾等の所謂日本主義は、決して夫の偏に己を樹てて他を排せむとする、狭隘なる主我的反動と日を同うして論ずべきものに非らざるなり、我邦歴史ありてよりここに二千六百年、中ごろ誤て外来の文化を過重し、国民の性情を蔑視したるより、建国当初の精神は不幸にして十分の発展を見る能はざりき。今や十九世紀人文の高潮に駕し、明治聖代の余沢を享けて、茲に中正なる国民的意識の中に、我日本主義の唱道を見るに至りたるは、我邦文化の史上に於て、一新紀元を劃したるものと謂ふべきなり。
 吾等は我日本主義によりて現今我邦に於ける一切の宗教を排撃するものなり。即ち宗教を以て我国民の性情に反対し、我建国の精神に背戻し、我国家の発達を沮害するものとなすものなり。吾等は素より世界一切の民族に向て、彼等の宗教を放棄せよと勧むるものに非ず。欧羅巴の文明史上に於ける宗教の職能は寧ろ太だ炳焉たるに過ぐ。夫の科学との衝突を捉へて以て宗教の有害を説くものの如きは、人文発達の一面に於ける道徳の意義を解せざるの徒のみ。然れども吾等は思ふ、宗教は今日多数の宗教徒が盲信する如く、啻に決して人類の先天性たるを必とするものに非ざるのみならず、夫の宗教的民族と称する者も、智識の進捗と共に漸く其迷信を擺脱し、超自然的信仰に代ふるに、実践道徳の原理を以てせむとするは、今日世界文化の大勢なり。況してや、我国民は由来宗教的民族に非ざるなり。三千年の文物歴史は、明に之を證して殆ど余蘊なし。夫の外教を拉取して偏に之を強ゆるものの如きは、徒に国性に戻り、民情に違い、其結果たまたま国家の発達進歩を阻害するに終らむのみ。吾等は各国国民は其特質に随うて、亦其発達の制約を殊にすべきものあるを確信す。
 そもそも宗教とは何ぞや。之を要するに、現実生活の自然的経過によりて到達すべからざる、一種超自然的理想を思慕し、或超理的方法によりて之に到達し得べしとする所の一種の信念に非ずや。是の如き信念の哲学上認容し得べきものなりや否やに就きては、吾等茲に之を説かじ。又一つの社会的現象として、或民族間における人文の進歩に裨益したる所ありしや、素より疑を容れず。然れども人種の同異を分たず、特性の差別を顧みず、建国の精神如何を察せず、彼に施したる所直に我に擬し、以て彼と一様の結果を収めむと要す。無謀も亦甚しからずや。印度欧羅巴民族は由来宗教的熱情に豊富なるの点に於て、世界多く其比を見ざる所、形而上学と超自然的宗教とを抱合せる彼等が古神話は、夙に将に来らむとする後代文物の性質を預告せり。若し夫れ宗教が、彼らの文学美術より社会的、はた国家的性活の上に及ぼしたる勢力の至大至深なるに至りては、吾等の殆ど想い及ばざる所なり。我国民にありては則ち然らず。一篇の古事記、是れむしろ歴史なり、神話に非ざるなり。よしや所謂日向人種にして印度亜里安族の為に駆逐せられたる『ドラビダス』人、若しくは『ドラビダス』人と交渉したる或一派『ツラン』人種なりとするも、韋陀的神話と古事記との比較は、いよいよ明に我民族的性情の非宗教的同化力の強大を證明するものに非ずや。素より多少の迷信の我国俗の間に存在せるもの無かりしに非ず、然れども一も宗教的発達を遂げ得たるものあらざりき。仏教は是等幾多の迷信を吸収し、国家の権力の下に殆ど強制的に伝播せられたりと雖も、已に大陸『ツラン』の間に其殊性を失ふこと尠からざりし印度亜里安的超世虚無の宗教観は、果たして能く幾何の根據を我国土の中に有することを得たりしや。顕密二宗の幽玄なる教理は祈禳修法の現世的行事とを外にして何事を我邦人に訓え得しや。浅薄なる厭世思想と、冷淡なる形式主義とに依りて我文化の発達を妨害したるの事実を外にせば、仏陀教の勢力果たして何処にかありとするや。一双の活眼を破して、上下二千五百年の歴史を通観し来らば、必ずや是の如き非日本的文化の強固なる牽制に対する、国民の意識的はた無意識的反抗を到るところに発見するならむ。
 西人動もすれば我国民を以て仏教徒となす。然れども吾等は疑ふ、真に仏陀教の精神を奉じて人生の理想となすもの、果たして幾何あるべきや、彼の緇衣にして経を手にするものと雖も、果たして是信念を有するものありや。一種当眼の迷妄の駆られて、所謂浄財を木偶売僧に進むるを事とするもの、未だ以て仏教信者と云ふべからず。一種の社会的形式に束縛せられ、祖業を継紹して其頂を円にし、其衣を緇にし、口に仏教を唱へ、手に仏典を持するものは、未だ以て仏教徒と云ふべからず。あはれ今日の仏教と称するものは、殆ど空虚なる形式主義に非ざるか。仏教徒と称せらるる我国民にして、真に仏教の信仰に憑據して、其思想行為を規定するもの、果たして幾何ありや。形式は能く無を化して有となす。所詮仏教は決して是国民的性情の中に根據を有せるものに非ざるなり。
 基督教の如きも亦然り。宿悪と云ひ、贖罪と云ひ、霊魂不滅と云ひ、神の国と云ふ。其超自然的、はた無差別思想は正に我国民の性情と相反せり。我国民の思想は由来現世的にして超世的にあらず。多少幽界の観念無きにあらずと雖も、之を其活溌溌地たる現世的思想に較ぶれば、素より言ふに足らざるのみ。是を以て我邦固有の神道は全然現世教たり。夫の主ぱら未来死後を説き、もしくは超絶の世界を惝怳する印度欧羅巴的宗教の比にあらざるなり。
 吾人は現世に生息す。百般の改善進歩は悉く皆現在に就て為すべきのみ。世を厭ふて遁るる所無く、現世を外にして人生あること無し。若し世に理想なるものありとせば、そは現実世界の自然的径行によりて到達せらるべきのみ。苟も吾人が現世の幸福に貢献する所無からんか、一切の事物は吾人其貴むべき所以を知らず。是の如きは我国民の根本的思想に非ずや。我国民は是実際的傾向を有するの点に於て、支那民族に類すると雖も、而かも彼れの如く保守的、はた回顧的ならず。其国民的抱負の偉大なる夙に神孫降臨の事蹟に照して、百世の臣民が其遺業を奉体して怠らざる所なり。其思想は独乙的純理哲学の高遠に乏しと雖も、『アングロサクソン』的常識の発達は尤も我長所とするところ。若し夫れ其社会的生活を尚び、国民的団結を重じ、君民一家忠孝無二の道徳を維持するは、現世的国民として皇祖建国の鴻図を大成すべき運命を擔へる所以に非ずや。各国国民は各々其到達すべき理想を異にす。是の如きは実は我国民が建国の当時に於ける一大抱負にあらずや。
 今日の宗教は是の如き民族と毫も為すなきなり。是を以て我国固と一の宗教を有せず、二千年の歴史は遂に宗教と抱合すること能はざりき。彼の基督教徒が遙に其母国を離れ、其の故旧を辞し万里の波涛を凌ぎて平等博愛の教理を我に伝へんと擬するもの、其信ずる所に忠なる素より深く多とすべしと雖も、其無謀無識にいたりては、むしろ憫殺に勝へざらむとす。
 国民的性情に一致せざるものは、遂に其完全の発達を望むべからず。而かも若し国民の福祉を増進する上に於て、多少の裨益ありとせむか、吾人は吾人が自由の意志によりて、是が扶植を務むる亦可ならずとせず。然れども宗教は到底国家の利益と相背戻するを如何にせむや。国家は現世に立ち、宗教は未来を尚ぶ。国家は差別を立て、宗教は平等を説く。其間おのづから枘鑿相容れざるものありて存す。仏陀教の涅槃は一切煩悩を解脱して、不生不滅無為寂滅の妙境なりと云ふ。よし是の如き消極的観念に止らずして、光明大悟と云ふが如き積極的意義の存するありとするも、人生の成立に須要なる実利を悪み、人欲を排し、社会国家を以て事とせざる、素より明らけし。基督教の所謂神の国、はた是れ何処にありや。一切造化を以て平等無差別なりとし、国を以て民を分たず、均しく神の子なりとなすもの。将た又一国の差別に執着し、忠君愛国を説くを以て、迷妄笑ふべしとなすものは、如何ぞ国家の目的と相両立するを望むべけんや。今の基督教徒が自教と国家主義との調和の為に、喋々弁明する所のものは、一切牽強附会の説のみ。
 蓋し国家は、人類発達の必然なる形式なり。人は一人にして生息すること能はず、茲に家族を成す。家族にして生活すること能はず、茲に必ず社会を成す。社会の上更に統治の主権を確定して、之を制御す。要は民衆最大の幸福を企図するにあり。是に於ては国家は自己の権能によりて、外に対しては一国の独立を全うして其勢威を皇張し、内に対しては国民の秩序を維持して其利福を増進せんことを務む。是れ人類的情誼なるものは、今日人文の進歩に伴える諸般の交通聯合によりて、やや発達し来りたりと雖も、之れはた国家の完全なる成立と共に初めて其萌芽を発したるもの、国家的道徳を外にして別に人類的情誼なるもの之れ有らざるなり。夫の人類的情誼の最高標章として認むべき、国際公法の如きも、之を執行するの主権なきを以て、所詮各国民の高尚なる道念に訴ふるの外無きなり。而して是の如き道念は、国家の完全なる統率の下に於てするに非れば、決して其発達を見るべからざるなり。
 之を要するに、現実界に於ける一切の活動は其国家的たることに於て最も有効なりとす、国家は人生寄托の必然形式にして、又其主上権力なり。今日に於て世界的王国の成立の望無きことは、猶 Civitas dei の現世に見るべからざるが如し。若し平等にして現はるるの日あらば、そは万有発達の原理たる、差別の中に於てせん。所詮国家は吾等の生活に於ける道徳の標準たらざるべからず。是の如き国家的主義に背戻するの宗教は、国家の為に排撃せざるべからざる素より論無し。
 吾等は人文の発達が確実なる道義的信念に負ふ所、甚だ少なからざるを確認す。夫れ唯是の如き事実を確認するが故に、其国民性情と国家主義とに対する利害適否に就て深く軫念する所あるのみ。若し今日及将来の我邦の道徳を以て、仏陀教、若くは基督教の手に一任するの甚だ危険なるを認むとすれば、吾等ははた何を以て之に代ふべきか。吾等が主唱する所の日本主義即ち是れ。
 然らば則ち、如何なるか是れ我日本主義の目的綱領なる。
 君民一家は我国体の精華なり。之れ実に我皇祖皇宗の宏遠なる丕図に基くものにして、万世臣子の永く景仰すべき所なり。故に国祖及皇宗は日本国民の宗家として無上の崇敬を瀝すべき所。日本主義は是故に国祖を崇拝して常に建国の抱負を奉体せんことを務む。我国民は公明快濶の人民なり。有為進取の人民なり。退嬰保守と憂鬱悲哀は、其性に非ざるなり。是に於てか日本主義は、光明を旨とし、生々を尚ぶ。是に於てか夫の退譲を重じ、禁欲を訓え、厭世無為を皷吹するもろもろの教義を排斥す。億兆一姓に出で、上下其心を一にし、内に臨みては棣萼相親しみ、外に対しては毎に国威を拡張して、古来未だ曾て外侮を受けず。是れ我国民の万邦に冠絶せる所なり。是を以て日本主義は、平時にありて武備を懈らず、いよいよ国民的団結を鞏固にせむことを務む。然れども妄に己を樹てて他を容れざるものに非ず、国内を修めて海外に臨み、与国と共に永遠の平和を享受せむことを希う。是に於てか、日本主義は、世界平和の維持を務め、進みて人類的情誼の発達を期す。而して要は我邦建国の精神を発揮し、我国民の大抱負を実現せむとするにあり。
 そもそも信仰は之を内に啓発すべくして、之を外より襲用すべからず。日本主義は今日吾等の創造したるものにあらずして、国民が三千年の歴史的検證に本ける確実なる自覚心の最も明瞭なる発表に外ならざるなり。其由来するところ深く国民の特性に根據し、遠く建国の精神に淵源し、牢として抜くべからず、夫の漫然外教を借り来りて、餖飣補綴せるものと、素より同日の論に非ざるなり。日本主義は大和民族の抱負及理想を表白せるものなり。日本主義は日本国民の安心立命地を指定せるものなり。日本主義は宗教にあらず、哲学にあらず。国民的実行道徳の原理なり。
 吾等は以上の確信によりて日本主義に賛同す。希くは最も健全なる国民的道徳の確立を望むもの、建国の精神を発揮して大和民族の偉大なる抱負を実現せむと欲するもの、及び人道の最も忠誠なる伴侶とならむと欲するものは、吾等と共に来れ。来て而して吾等と共に日本主義を賛唱せよ。

(明治三十年六月二十日『太陽』)


底本:『明治文学全集 40 高山樗牛・斎藤野の人・姉崎嘲風・登張竹風集』 筑摩書房 1970年7月
入力:yshr
傍点は省略した。

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