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人の死について――「かけがえのない存在」と「交換可能性」 [その他]

飯島愛が死んだ。
それをきっかけにちょっと考えた。

この間のブラタモリで明治神宮の人工の杜(もり)のことをやっていた。
大きな木が立っている。
その下は大きな木が日光をさえぎっているので暗い。
そのため大きな木のしたでは若い木は育たない。
やがて大きな木が枯れて倒れる。
そうすると空間があいて若い木が育つ。
ナイナイの岡村隆史に「早く死んでくれませんか」と言われるっていう話をタモリが言うかなって思ってたらやっぱり言ってた。この話はいいともかオールナイトニッポンで聴いたことがある。

よく芸能界は椅子取りゲームだと言われる。
ルー大柴が「ルー語」で、いまのように復活する以前、ユースケサンタマリアが出てきたころ、ユースケはルーが座っていた椅子に座ったんだと言われていた。

飯島愛が引退して誰がその椅子に座ったのか。
これはもうはっきりしている。
西川史子だ。
サンデージャポンはまさにその「椅子」に座っている。
ラジカルを見ても中山秀ちゃんとおもしろく会話してるのを見ると『うちくる』での飯島愛を彷彿したりする。

綾波レイは言った。
「私が死んでも代わりはいるもの」と。

『D4プリンセス』というアニメがとても印象に残っている。
親友である我王ねじる(小西寛子)が死んだのに、学園では普段どおりの日常が進行していくことに主人公瑠璃堂どりす(倉田雅世)はつよい違和感を覚える。
『なんでみんな平気なの?』、と。

「かけがえのない存在」と「交換可能性」

いまニュース番組を見ると「派遣切り」という言葉を必ずといっていいほど耳にする。
工場労働をする派遣社員は交換可能性のなかにいる。
企業は必要なら雇い、いらなくなったら解雇する。
また必要になった時、新しく雇う派遣社員は以前働いていた人間である必要はない。
いっぽう、芸能人はその人本人であることが意味を持つ。
映画『HERO』の主演はキムタクでなくては皆が納得しない。
「キムタクの都合が悪いのでものまね芸人のホリで」っていうわけにはいかない。

誰でもできる仕事より、その人でなければできない仕事が世間から評価される。
芸能人を目指している派遣社員はいても、派遣社員を目指している芸能人はいない。

しかし芸能人であっても交換可能性から逃れられないいう事実。
「飯島愛が死んでも西川史子がいるもの」という残酷な世界。

本当のかけがえのなさってどこにあるの?
もしかして無いの?
暗い気持ちになる。

そんなとき飯島愛の父親のコメントが伝えられた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081226-00000019-oric-ent
飯島愛としてファンの皆様に応援して頂きました娘も、大久保松恵として私ども家族の元に帰ってまいりました。新しい道へ進もうとしていた矢先のことで、娘もさぞかし無念のことと思います。今まで娘を応援して下さいましたことを心から感謝申し上げます。今後は家族一同、松恵の思い出と共に静かに暮らしていきたいと思っておりますので、何卒ご理解の程、お願い申し上げます。

もしかしたら、人間にとっての最後の、あるいは本当のよりどころっていうのは家族なのかもしれない。
父親にとって娘のかわりになるものなんてない。
テレビの世界にとって代わりの人間はいるかもしれないけど、
家族にとってその娘はたったひとりの娘だ。


かぞくだいじに

ドラクエの作戦っぽく言ってみた。

それではよいお年を。

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