SSブログ

ゲド戦記――或いは外傷と萌え [声優]

今日は4ちゃん(日テレ)で「ゲド戦記」をやるってことだったので、『見るぜ』と思っていたのですが、7時(19時)ごろから急激に睡魔に襲われてしまいました。
まどろみのなかで、家の前の道路を一台の珍走団なバイクが「バーボバーボ、ブアバババン」とうっさい音を鳴らしていったので、『なんだよ、こっちは寝てるのに』と、チラッと時計を見たら、10時(22時)過ぎじゃあーりませんか。
『うわ、ゲド戦記はじまってるよ。しかし、途中からでも、まったく見れないよりはマシだ。珍走団もたまには役に立つ』
で、見ました。主人公の少年が、自分とそっくりなのに追われて、魔女につれてかれるあたりから。

感想

「ゲド戦記」は全ジブリ作品史上最高傑作です!

吾朗は駿を超えた。

なにがいいって、ヒロインのおにゃのこがかわいい。
宮崎駿アニメで、女の子がかわいいと思ったことはこれまでに一度も無い。
しかし、このテルーはかわいいと感じた。

アニメの価値というのは、おにゃのこのかわいさで決まる。

この僕の基準からいうと
ゲド戦記>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>それ以外のジブリアニメ
ということになる。

今ちょっと、ヒロインの名前を確認するためにウィキペディアの「ゲド戦記」の項目を見にいったら、この映画散々な酷評らしいじゃないすか。原作者にまでボロクソw

いや、僕もアニオタの端くれとして公開当時、評判悪いのは知ってたんですがね。
その時は、もともと僕はジブリが好きじゃないので、「プギャー」あるいは「ざまあああ」的に受け取っていました。
(ジブリが好きじゃないっていうのは、声優ファンなら誰しもが少なからず抱いていることだと思います。ジブリアニメをみて声優を志した人もたくさんいるというのに、芸能人ばかり起用するジブリ)
息子が監督するって話に、おいおいジブリって世襲制なのかよ! 宮崎駿はリベラル(レフト的な意味で)じゃなかったの? 社会主義国なのに世襲制な北朝鮮みたいじゃーん、とか思ってました。

しかし、今日ゲド戦記を見て、ジブリなのにこんなにかわいいおにゃのこを登場させた吾朗監督に拍手を送りたい気分になりました。

テルーは全体的にいいけど、髪型がとくにいいよね。
僕の中で、最高位に燦然と輝いている美少女ゲームに「久遠の絆」という作品があるのですが、
テルーを見てて、天野聡子を思い出して、切ない気持ちをよみがえらせたりしていました。
ARIA的に言うとテルーは「もみ子」だね。
顔に火傷の痕があるっていうのも、これはかなり萌えポイントだと思います。
テルーかわいいよテルー

斎藤環氏は『戦闘美少女の精神分析』のなかで、
小谷真理氏は以前、ファリック・マザー(権威的に振る舞う女性)達がなんらかの傷――例えば「レイプ」のような――を負っているのではないかという、きわめて示唆にとむ指摘をしている。
(中略)
クシャナ(「ナウシカ」の)は、西欧的文脈に忠実な意味でのファリック・マザーである。彼女は兄弟の裏切りなどによって、多くの外傷を体験してきている。極めつけは、王蟲によって文字通り外傷を受けた彼女の身体である。まさにクシャナは、王蟲によってレイプされた存在なのであり、われわれは彼女がそれゆえに戦うのだと、ごく自然に納得することができた。そしてわれわれがクシャナに魅了されるとすれば、その欲望はまず、彼女の「外傷」に向けられるだろう。この構図には、われわれが日常的にヒステリーに魅了されるさいの欲望の図式を、そのまま適応することができる。
(中略)
「恋愛」の名において女性へと欲望が向けられるとき、そこでわれわれは常に女性をヒステリー化しているとみなすことができる。われわれが女性の表層に惹かれるときに、われわれは自分を魅了するものが、当の女性の、目には見えない本質なのだと信じようとする。「ヒステリー化」とは、まず、ここでなされる「可視的な表層」と「不可視的な本質」との、それ自体は無根拠な乖離と対立化の手続きを意味している。同時にまた、ここで言われる「女性の本質」なるものが、実は「外傷的」なものに等しいと言うこと。われわれが女性の外傷にこそ魅了されるということ。それを示す痕跡は、大衆文化の中にいくらでも見出される。「傷ついた女性」は、まさにその外傷性ゆえに愛されるのだ。(単行本P260~P264)

と述べています。斎藤氏の話の流れは、ファリック・マザー(=攻撃的な成人女性)とファリック・ガールを対比させ、外傷の無い存在=ファリック・ガールつまり戦闘美少女(=クシャナに対比されるナウシカ)の分析に入っていくのですが、ここでは触れません。
僕がここで示したいのは、
「われわれが女性の外傷にこそ魅了されるということ」
ということです。
この斎藤さんの本は4年前に読んだのですが、当時この部分を読んで、『なるほどなぁー』と深く納得したのを憶えています。
精神分析の用語(ファリックとかヒステリーとか)が出てきて、読む人によってはわかりづらいかもしれませんが、僕の文脈で敷衍(あるいは単純化)して言えば、
「傷は萌えポイントである」
ということを理解していただければいいと思います。
斎藤氏は戦闘美少女と対比するために成人女性(クシャナ)の外傷をピックアップしましたけれども、
「われわれが女性の外傷にこそ魅了されるということ」
という真実は女性の年齢問わず適用されるものであるとおもわれます。
コードギアスで言えば、ナナリーも目が見えない、歩けないのダブル障害で、魅力がマックスに僕らにずどーんと来るとか、C.C.が過去に魔女狩りで火炙りになっててかわいそうで守ってあげたいとか、例を挙げればきりがありません。
僕は「ONE~輝く季節へ~」という、超名作で、もはや古典といっていいゲームをプレステで昔プレイした時から、目が見えないとか、しゃべれないとか、障害をもった女の子たちにどうして僕はこんなにまで心惹かれてしまうのかということをしばらく考えていました。『俺ってば不謹慎?』とか。障害と外傷を同じもののように考えてしまっていいのかどうかという問題は残りますが、この
“われわれは女性の外傷にこそ魅了される”
というのを見たとき、ああ、やっぱりそうなんだ、俺大丈夫なんだと思ったりしました。

僕いま、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいるんですけど、ゲド戦記の、「影」が出てくるとことか、永遠とか生とか死とかの話がちょっと関係あるかもとか思いました。
話ちょっとそれますけど、前に村上春樹の『風の歌を聴け』を読んだ時、手の指が通常じゃない女の子とか病気の女の子とかが出てきて、『ああ、これは萌えなんだな』と思いました。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』については読み終わったら、なんか書くかもしれないし書かないかもしれません。
読んでて連想したのは、よく言われる「ONE~輝く季節へ~」よりも、安倍吉俊の「灰羽連盟」でした。(いまウィキペディアを見たらやっぱりそのことが書いてあった) あと同じく「テクノライズ」(地下の世界とか、外に出るとか)とか。

話をゲド戦記に戻しましょう。
声優の話。
エンディングのクレジットで中村悠一と加藤英美里の名前があって驚いたw
香川照之はジブリにあってるっていうかジブリっぽい演技。
手嶌葵は、僕がテルーをかわいいと思うのを妨げなかった。
ウィキペディア見たら主題歌に新居昭乃が関わってた。ビクターアニメでなじみがあるのでおおと思った。
内容の話。
テルーが首を絞められて、ぐったりして、ばったり倒れた時、『死んでもうたあ』と思ったんだけど、死んでなくて、龍になって魔女(?)を焼き殺すとか、テルーかっこいい。不死身&龍とかすごく萌える。テルーを主人公にした深夜アニメ見たい。声は手嶌葵かくぎゅ(釘宮理恵)がいい。
ゲド戦記 特別収録版
風の谷のナウシカ
戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

  • 作者: 斎藤 環
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/05
  • メディア: 文庫


共通テーマ:アニメ
シャーリーが……絶望した! ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。